「月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」

 先月、ある夜のこと。外出先から空を見ると、月の光がこうこうと降り注いでいることに気が付いた。その明るさにはついつい見惚れた。そこで思い出したのが上記の法然上人の歌である。仏の慈雨は美しい花にも雑草にも平等に降り注いでいるが、私自身は庭の畑には水を与えても雑草には与えない。その根性は幸・不幸を分別し、幸せだけを求め、不幸せな面は遠ざけようとする心なのだろう。仏の心、つまりどんなものにも降り注ぐという慈雨の心を知り、わが心の愚かさを知るだけである。そうした人間の所業は分別心そのもの。南無阿弥陀仏という念仏は思いはからいを破るはたらきがあることを思い起こそう。分別が破れてこそ自体満足して生きていけると思う。従って、南無阿弥陀仏は「腑に落ちる」という悟りの世界ではなく「腑(分別根性)が落ちる」という頭の下がる世界であることを思い知ることができる。
 あらためて「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」である。意味するところは「阿弥陀様の一人漏らさず救うというお誓い(本願)は、月の光のように誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし、眺めた人にしか月の光の存在が分からないように、南無阿弥陀仏と
念仏を称えた人だけが阿弥陀様の本願によって極楽浄土に生まれること(往生)ができるのです」となる。
お月さんの美しさに見ほれるほどで
なければ阿弥陀様の本願にも気が付
かないということである。
 はてさて、天気が良すぎて雨が一
向に降らないと、誰もが雨が恋しく